俺たちへの憧れ

 

性別の話をしようと思う。

 

わたしはずっと男の子が羨ましかった。友達同士で集まって下品な話題でバカみたいにふざけ合うあの輪の中に入ってみたかった。ただし、女の子として男の子の輪の中に入りたかったわけでも、女の子としての自分が嫌だったわけでもない。男の子として、男の子の集団に混ざってみたかった。

 

わたしの身体的性別は女性で、たぶん社会的にも女性で、自認する性別も女性だ。"性"について込み入った話をするとぼろが出てしまいそうなのでそれ以上の記述は控えるけれど、わたしはわたしの享受する「女性」というカテゴリをわりと気に入っている。

わたしはスカートが好きだし、化粧が好きだし、料理もまあ好きだし、運動より読書が好きだし、子どもが好きだし、人と争わないのが好きだし、気遣いが好きだ。結婚したら夫を立ててあげたいと思うし、家庭に入るべき状況ならそうすると思う。これはけっこう一般的な(もしくはこれまで一般的とされてきた)女性像だと思うのだけど、わたしはわたし自身のこうした女性的側面をかなり好ましく思っている。ジェンダーバイアスへの反発や、それに対抗する運動はもっともだし、性差別による格差を是正しようとする動きはよく理解できるのだけど、わたし自身はこれまで形成されてきた前時代的な性役割に魅力を感じるのである。というより、「性役割を持っていること」そのものが魅力なのかもしれない。男性が男性としての特性を、女性が女性としての特性を持っており、それを存分に活かせば評価されるというのが好ましい。もちろんそれを強制することの是非はまったく別の話だ。

 

女はつまらない、という言説がある。その通りだと思う。厳密に言えば男集団に女が混ざるととたんにつまらなくなる。これはつまらない女性が悪いわけでも、女性をつまらないと評価する男性が悪いわけでもない。それぞれの特性が異なっているために生じる「噛み合わなさ」を男性側から表現しただけで、仕方がないことだ。男性が集まった時の「俺たち」の空気に対して「不平等だ、女も混ぜろ」というのはお門違いで(もちろん逆も然り)、何より「俺たち」に「わたし」が混ざったとたん、それがどれだけ馴染んでいたとしても、その集団はもはや「俺たち」ではなくなってしまう。ただただわたしは「俺」として「俺たち」の中に入れる男性をいつも羨ましく思うのだ。

もちろんこれはわたし(女性)から見た、ある種ステレオタイプ的な男性観で、「俺たち」に入れない「俺」だっているだろうし、実際にはちゃんと「俺たち」に入り込む「わたし」だっているのだろう。社会の中でのそういう「実際」については十分話し合えばいいけど、わたし個人にとっては、自分には踏み込むことのできないカテゴリがあるということ自体が魅力で、また安心でもあるのだ。これからの時代、今あるステレオタイプ的価値観に沿った言動に魅力を感じ、保全したいと思うことは、どれだけ容認されるのだろう。

 

お酒の場に行くといつも男性のみで飲んでいる集団は楽しそうだなあと思う。もしかしたら彼らの話題には女性差別的な考え方が少なからず入っているのかもしれないし、「女が混ざるとつまらない」のはそういう話題がとたんに冗談ではなくなってしまうからなのかもしれない。それを大した問題と思わないわたしの中にも女性差別的視点が根付いているのかもしれない。それでもわたしはそういう「俺たち」の中に入りたいと思い、しかし「わたし」が混ざった「俺たち」はやっぱりつまらないことがわかっているので、「俺」になったつもりで、「女が混ざるとつまらない」の言説を正当化してみたりする。

 

忘れらんねえよというバンドがけっこう好きで、何が好きかというと彼らの四六時中好きな子のことを考えて自慰ばっかりしているこれもステレオタイプ的な「童貞感」が好きだ。わたしは童貞にはなれなくて、絶対踏み入ることのできない「童貞」というカテゴリの外から、無責任にずっと憧れを持っている。そういう憧れをわたしはずっと守っていきたいし、守られていきたいと思う。今回言いたかったのはそういうことです。

過涙症

いつものように22時にバイトが終わる恋人の帰りを待ちながら人参を切っていると視界の端にチラつくものがあり、コンロに目を向けるとゴキブリがいた。わたしはほんとうに「ひえ〜っ」と声をあげてしまい、倒さなければ、だけどコンロの上でゴキジェットは使えない、かといって逃すわけには、と10分ほど固まったままその動きを目で追っていた。大量のキッチンペーパーを手に取り、意を決して飛びかかるとゴキブリの方も負けじとわたしに向かってくる。勢いで床に落ちたのを見逃さずゴキジェットを噴射し、ドアの隙間で動かなくなったのを確認してなお噴射し続けること1分ほどでとりあえず落ち着いた。22時を回っていたのでこの激闘のおかげで夕飯ができていない旨を恋人にLINEすると電話がかかってきて、一部始終を伝えながら普通に号泣してしまったので料理はやめにしてラーメンでも食べに行こうということになった。そういうわけでさっき注文した塩ラーメンを待ちながらこれを書いている。

 

わたしはほんとうにすぐに涙が出てしまう。感情豊かだとかHSPだとかそういうことじゃなくて、他の人と同じかより低いレベルの情動を経験してもわたしだけ涙が出てしまうみたいなこと。涙の堰が異常に低いということ。ゴキブリなんて何度も見てきたし対処もしてきたし、泣きたくなるほどの強い恐怖を感じたわけではない、それなのにぼろぼろ涙を流してしまう。泣くこと自体はわりと好きなのだけど、こんなしょうもないことで泣きたくないし、人前で泣くのは嫌だし、涙を武器として使っていると思われるのも本当に嫌で、どうしてわたしだけこんなにコントロールできないのだろうとずっと思っている。鼻水が抑えられない鼻炎とか、汗がたくさん出る多汗症、過剰に眠ってしまう過眠症、制御できない身体症状にはいろいろ名前が付いているのに涙にはそれがない。涙が出すぎて困っている人はどうすればいいのだろう、薬でもなんでも飲むから治ってくれたらいいのに。もしくは涙が鼻水と同等の軽さで捉えられるようになればいい。「今日涙めっちゃ出る〜」「大変だね〜ティッシュあげるよ」。

 

こんな時間なのに店はけっこう混んでいる。忙しなく動き回るお姉さんが持ってきた塩ラーメンは普通のラーメンより80円高いわりには安っぽい味だったけれどゆずの香りがきいていてよかった。わたしの安っぽい塩味の涙もすてきな香りがすれば少しくらい好きになれるかもしれないな。

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先日ベトナムに行きました。

 

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ベトナムのいいところ、タクシーとビールと煙草が安い。食事は基本的に美味しいしコーヒーがとても美味しい。地面そこらじゅうによくわからないシミが広がっている。道路は意外とすんなり渡れる。とにかく二輪車が多くて原付だろうと二人乗りや三人乗りは当たり前、車線の概念はなく、おい邪魔だどけのクラクションが往来する。ただしみんな律義にヘルメットだけはつけている。調べるとどうやら子どもは乗車人数に含まれないらしいし原付は無免許でOKらしい。平和な国だ。

 

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本当に何も決めず飛行機とホテルだけ予約して現地に到着し、とりあえずフォーを腹に流し込んだその足であまり考えず申し込んでみたメコン川のクルーズツアーはガイドの英語が全く聞き取れないこと以外はとてもよかった。参加者の中でわたしたち以外に日本人はおらず、白人は白人で固まっている様子だったので何となく集団の後ろのほうをついて歩く。はちみつ農園の見学中にインド系の老婦人姉妹に話しかけられ、もごもご返事をしたが特に会話は弾まなかった。

ところで旅の同行者は勝手に喋ってくれる人を選んだ方がいい。目的地への道中、何か話すべきか迷う緊張感や居心地の悪さはそれだけで旅の楽しさを曇らせてしまう。同行者は旅のあいだじゅうずっと勝手に喋っていたのでちょうどよく楽に過ごせた。2日目の夜、ベッドの上で高校時代の流行について延々と話し続ける彼女を放って就寝したが、翌朝そんなことはまったく引きずらずヘアアイロンを貸してくれるのが彼女のいいところだ。

 

知らないものに触れるのは楽しい。特に海外志向というわけではないのだけど、知らない国に行くとわかりやすく知らないことばかりなので楽しい。もちろん知らないものを知る楽しさには責任を求められない気楽さも含まれていて、そういう学習の方法しかできないことはけっこう危うい。わたしにはずっと「自分」という謎に満ちた研究対象があって、それについて知るための手がかりを得られる授業が楽しくて仕方がなかったのだけど、就職について考え始めたとき「自分にしか興味がない」という今の状況があまりにも絶望的で最近はずっと落ち込んでいる。

 

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困ったとき脈絡なく話題を変えることができるのが文章の強みらしい。昨年の暮れからずっと肌が荒れている。首まわりから始まって唇、目の周り、耳の端、腕、とにかくあらゆる部分が痒くなって掻いているうちに皮膚が硬化してしまった。皮膚科も2度受診したのだけどあまりよくならなくて、知人に会わなくて済む状況でよかったなあと思う。最近観たブルーマインドという映画は主人公の女の子が人魚になる過程を描いたもので、その中に皮膚が硬くなって鱗に変化していく場面があった。何にもなりたくないなわたしも人魚になれたらいいなと願いながら唇にワセリンを塗る。きょうの夕方1時間ほどふらふら散歩したのだけどもうベトナムより全然暑い気がする。これから夏が来たらわたし干からびちゃうかもね、そしたら海に連れてってよね。

いちご大福/意味もない鬱

 

 中学生のときツイッターにはまっていて、その頃からかれこれ6年ほどネトストしているツイッターの人がいる。彼は文章を書く人で、「自意識とは、自分が、自分を、どう見るか」と定義していた。わたしはこの定義がすごく好きで、これに基づいた自意識を強く持っている人が大好きだ。自分がどんな人間に見えるのか、どんな自分でいたいのかということを常に意識している人たちは格好よさと痛ましさを併せ持っていて、その不安定感がくらくらするほど好き。彼の文章は彼自身の強い自意識で溢れているのでとても好ましく、わたしはほとんど恋をしていたので何となく鬱っぽい夜にはよく彼のブログを読み漁っていたのだが、そんなある夜に彼からいきなりDMが来た。

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けなげなわたしは彼に気に入られようと悩みながら1時間ほどで書き上げて送信したのだけど特に何の感想ももらえずにそれっきりとなった。大好きな彼にわたしの小さな自意識を見透かされたようで嬉しいような恥ずかしいような気持ち悪さを抱えてそのまま眠った。このままではその文章が浮かばれないのでこの場で供養する。

 

小さい頃、大人しかライターの火をつけることはできないんだと本気で思っていた。何度カチカチ鳴らしても無表情のライターは大人が握ると簡単に火を灯す。早く大人になりたかった。それからずっと早く大人になりたいと思っている。 夏の終わりに花火をした。ドンキの袋をぶらさげて公園の隅にしゃがみこんだところで誰かが火がないと騒ぎ出すので鞄からライターを取り出した。煙草吸うの?の問いにあー何か彼氏のが入ってた笑と意味のない嘘をつく。風の強い日だったから全然火がつかなくて、安全装置を回す親指の左側が赤くなってじんじんした。 早く大人になりたくて、いつも誰かの真似をしようと周囲の様子を伺っているうちに目つきが悪くなってしまった。誰かの価値観に合わせた行動だけがうまくなっている。“ライターと聞いてすぐに煙草を連想するのは逆にダサい”なんて誰に媚びているのかわからないままつまらない文章を書く。わたしは一生子供のままだ。

 

 

最近はどうしてもいちごが食べたくて、スーパーで綺麗に並べられた1パック500円のいちご達の前を5往復ほどしてそのままレジに向かう日々が続いていた。わたしはいちごが大好きなのだけど、"いちごが好き"という情報からの様々な邪推がどうにも怖くてずっとおおっぴらに表明することはできなかった。わたしが何を好きだろうと誰も何も気にしない、そんなことは分かっていてもずっと頭の隅にちらついてしまうのが自意識だ。こういうしょうもない自意識はそれを持っていない人からするとほんとうにほんとうにしょうもないものなのだけど、わたし(たち)はこれがないとまともに立って生きていられないのだ。

 

同じような問題で読書が好きかと問われるといつも即答できない。「まあ好きだよ」の「まあ」に含まれる、相手が自分より「読書好き」であった時の保険としての面はもはや自明なのだけど、ただわたしは「文章を読むのが好き」なだけで、もっと言えば「文章から書き手の自意識を読み取るのが好き」なだけなのだ。わたしが文章を読むときその内容はあまり重要でなくて、どれだけ面白いと思った小説でもストーリーはすぐに忘れてしまう。ただその文章の中での言葉の使われ方やリズムがどんな印象であったかということはよく覚えている。むしろ重要なのはそれだけで、だからそれらが際立つ小説やエッセイの類をよく読む。

 一番好きなのは他人のブログだ。その人が一日をどう過ごしてどんな思考をしていたのか、その内容は基本的に本人以外の誰にとってもどうでもいいもので、それがその人の好きなリズムで、好きなことばを使って語られている様子を読むのがすごく好き。この人はきざな言い回しをする人だとかこの人この単語好きだなあとか、文章から読み取れるちょっとした性格や垣間見える自意識がとてもいとおしい。そういう意味のない読書であればけっこう胸を張って好きだといえる。

 

まだ世間がここまで騒がしくなる前、読書や映画鑑賞から「得られるもの」についての話をする機会が何度かあった。ある人は、専門書や啓発本はそれを読むことによって得られるものが明確だから読む、小説や映画はかけた時間と得られるものが釣り合わないから気が引ける、と言った。気づいていなかったのだけど、世の中はけっこう色んな行動に意味を求めていて、なんでそんなことするの?それに何の意味があるの?の問いを私たちに与え続けているようだ。

わたしは意味のないことが好きだ。意味のない文章を読むのが好きだし、意味のない文章を書くのが好きだし、意味なく映画を流して眺めるのが好きだし、ただ何もせず目を閉じて寝転んでいるのも好きだし、そのまま眠ってしまうのもいい。歩くのもどうせならゆっくりのほうが好きだ。わたしは効率や成果や学びを求めることにどうやら向いていなくて、そこで失敗することを恐れて「効率を求める」という土俵から自ら降りているのかもしれない。これもまぎれもない自意識の表出だ。ただわたしはわたしの都合の良いようにできているので、そうやって意味なく生きる自分が好きだと思い込めている。

 

最近は意味のある人生を生きている方々が家に押し込められて意味のない時間を強要されることに苦しんでいるのを見てしめしめと思っていたのだけど、そういった人たちももうすでに新しい意味をそれぞれ見つけ始めているようだ。わたしは今日もファミマで買った2割引きのいちご大福をほおばりながらこれも意味のない食物摂取だなあなんて考える。なんだかどうしようもなく文章が書きたくて、でもわたしは酔っ払ったときか落ち込んでいるときにしか良い文章が書けないので無理やり嫌なことを考えてみたけれどうまくいかない。意味もなく鬱っぽくなっただけで何も得られなかったし、大福の皮に包まれたいちごは求めていたほど甘くなかった。

ミッドサマー・覚書

ミッドサマーを観た。スリルもホラーもグロテスクも全然得意じゃないのだけど予告をひとめ観たときからなんだか観なくてはいけないような気がしていた。観た。ひどかった。コロナウイルス対策か換気をしていた劇場はなんとなく肌寒く、羽織った上着が触れる肌は汗ばんでいて、それなのに身体の中からどんどん寒気が昇ってきて、頭だけがずっとじんじん熱かった。

正直ストーリーはどうでもよくて、とにかく場面ひとつひとつの画がぐるぐるぐるぐる頭の中を回っている。たぶん、きっと、これこそわたしが創作物に求める魅力なのだと、すぐにわかった。綺麗さ・美しさ・鮮やかさ・儚さと、汚さ・醜さが共存する、不協和音のような気持ち悪さ。異物感、違和感、気味悪さこそが、わたしの求める創作なのだ。

なんでもそうだ、映画でも、小説でも、音楽でも、まっすぐだけだとつまらないし、ひねくれだけだと胸焼けがする。まっすぐなのにひねくれてるとか、明るいのに暗いとか、かわいいのに怖いとか、綺麗なのに汚いとか、対照的なものをひとつの場面に収める人工的な気持ち悪さがわたしには魅力的でたまらない。

ミッドサマーはグロテスク要素が強すぎてすこし辛かったけれど、その画面じゅうに咲き誇る花々がわたしの大好きなテーマなのでとくに心惹かれた。花はそれじたいが美しさ・可憐さ・儚さと醜さ・汚さを併せ持ったものであるからわたしにとってすごく魅力的なのだけど、視覚的にはただ華やかで繊細で美しい。そんな花々と同じ画面に生々しく荒々しい血肉や汚物やセックスが存在する気持ち悪さ、酩酊感がたまらなく愛おしかった。わたしのルーツである「花」を、荒っぽい「生(性)」と「死」で「汚された」ことに一種の快感を覚えているともいえるかもしれない。

さいきんまた映画を撮ろうと誘われた。彼はずいぶん酔っ払っていたけれどわたしの文章には熱があるんだとしきりに言った。わたし自身ですら感じられない熱を彼がどこから感じているのかはわからなかったけど「きみの言葉を撮りたいんだ」という誘い文句はきざなプロポーズみたいで少しよかった。わたしはずっと文章をベースに生きてきて、わたしにとっての創作は文章が完成形なので、脚本を書き上げた時点で満足してしまって、映像にしようとしたとたん熱が冷めてしまう。たぶん映画制作には向いていないのだろうと前回じゅうぶんに感じたのだけど、もし、もしもう一度作るなら、こんな映画を作りたいと思う。不協和音、気持ち悪さ、違和感、そんなのをわたしなりに、熱をもったまま表現できたら、それがわたしの創作活動の目標なのかもしれない。

気がついたら日差しがずいぶん暖かくて、真夏はまだ先だけれど春は足元から迫ってきている。あの小さなスクリーンが真っ暗になった瞬間からずっと微熱のときみたいに頭がふわふわしていて、わたしの中にも夏の種が植わったみたい。

ミッドサマー、観てよかったです。みんな観てね。

酔った

酒を飲んだ。酔っ払っている。酒を飲んでいるだけで時給が発生するバイトをしています。酔っ払ったとき恋人のことが大好きだーー以外の思考が消滅してしまうのはわたしが愛に生きていることの証明ではないですか?わたしは愛の人なのです。というかわたしは愛を求めている人で、いつでもいつまでも誰かに愛されたくて必要とされたくてそれだけを求めておしゃぶりを咥えたまま待っている。だから恋人が好きなのも本当に好きなのではなくて好きだと言われたいから好きだと思い込んでいるだけなのでは?と勝手に疑心暗鬼になってしまう。本当に本当に大好きなのにそれが自分の本心だと信じきれない。本当なんだよ?救いようがない。何にせよわたしは「本当に」恋人のことが「好き」だと思っている、それは間違いないのだけどわたしの「好き」は好きでいてくれるから(ほしいから)の「好き」だったり、「これを好きでいるわたしが好き」の「好き」だったり、結局手放しの「好き」ではないのです。わたしはずっと、ほんとうにずっと何にも見返りを求めないただ好きでいるためだけの「好き」がほしくてほしくてしょうがなかった。ただ好きだから好きという感情がほしい、これは人に対してだけじゃなく音楽や映画やファッションや、その他どんな分野でもそうだ。すきだすきだと言いたかった、誰かのことを何かのことを力いっぱい好きでいたい、何も求めずただ好きでいることがどれだけ素晴らしく見えるかわかりますか。何かを本当に好きだと思う気持ちをもっている人、その気持ちはその気持ちだけでほんとうに尊くてだいじなものです、それをもっているだけであなたはきらきら輝いている、大丈夫です。わたしは本当は何も好きになれない、こんなわたしをいったい誰が何が好きだと言ってくれるだろうね、この思考のせいで本当に好きなものに霞がかかってしまうのが一番悲しい。

スープカレーに浮かぶ

今日はスープカレーを食べた。今週2回目のカレーで、ライスSじゃなくてMにしたらよかったなあと思いながらピリピリする口内を水で冷やす。1月22日はカレーの日でした。知っていましたか?みなさん。

 

最近「ブログ読んでるよ」と声をかけられることが増えて、読んでもらえることは嬉しいのだけどいざそれを面と向かって表明されるとなんだかこっぱずかしくてしどろもどろになってしまう。照れてるだけで本当はとっても嬉しいしもらった感想は1人のとき何度も何度も反芻しています。

わがままなのだけど、結局わたしはわたしのことをぜんぶぜんぶ理解してほしくて、でも簡単に理解していることを表明してほしくはなくて、「わかんないけど、わかるよ」のスタンスが欲しいだけなのかもしれない。わかりやすい言葉でわかりやすくわかってほしいわけじゃなくて、わからないままわからないことをわかってほしい。

 

きょう一緒にスープカレーをちびちびスプーンですくって飲んだ後輩の女の子はちびちびしながら「涼花さんは言葉を丁寧に選びながら話をするひとですよね」とおだやかに言った。「そうなんだよ」と思った。そうなのだ。わたしは本当はわたしの曖昧な思考を丁寧に慎重に言葉を選びながら表現するのが好きだし得意だ、それなのに最近はそのことを忘れてしまっていた。曖昧に生きたい。それを曖昧なまま伝えられる言葉にしたい。その曖昧さを曖昧なまま評価してくれるひととの交流を大切にしたい。いつも明快な恋人と一緒にいるからいつのまにか忘れていた、ぼんやりした考えをぼんやりしたまま共有できる楽しさは、ある種の人びとにとっては逃げや甘えなのかもしれないけれど、わたしはそれがないと勝手にしんどくなってしまう。はっきりしすぎるのはわたしにはどうにもつらいのだ。

 

スープカレーには刻まれた大葉とよくわからない香辛料がぷかぷか浮かんでいて、これくらいでちょうどいいなと思った。ぷかぷか浮かびながら、わかるものはわかるままに、よくわからないものはわからないままに。