ミッドサマー・覚書

ミッドサマーを観た。スリルもホラーもグロテスクも全然得意じゃないのだけど予告をひとめ観たときからなんだか観なくてはいけないような気がしていた。観た。ひどかった。コロナウイルス対策か換気をしていた劇場はなんとなく肌寒く、羽織った上着が触れる肌は汗ばんでいて、それなのに身体の中からどんどん寒気が昇ってきて、頭だけがずっとじんじん熱かった。

正直ストーリーはどうでもよくて、とにかく場面ひとつひとつの画がぐるぐるぐるぐる頭の中を回っている。たぶん、きっと、これこそわたしが創作物に求める魅力なのだと、すぐにわかった。綺麗さ・美しさ・鮮やかさ・儚さと、汚さ・醜さが共存する、不協和音のような気持ち悪さ。異物感、違和感、気味悪さこそが、わたしの求める創作なのだ。

なんでもそうだ、映画でも、小説でも、音楽でも、まっすぐだけだとつまらないし、ひねくれだけだと胸焼けがする。まっすぐなのにひねくれてるとか、明るいのに暗いとか、かわいいのに怖いとか、綺麗なのに汚いとか、対照的なものをひとつの場面に収める人工的な気持ち悪さがわたしには魅力的でたまらない。

ミッドサマーはグロテスク要素が強すぎてすこし辛かったけれど、その画面じゅうに咲き誇る花々がわたしの大好きなテーマなのでとくに心惹かれた。花はそれじたいが美しさ・可憐さ・儚さと醜さ・汚さを併せ持ったものであるからわたしにとってすごく魅力的なのだけど、視覚的にはただ華やかで繊細で美しい。そんな花々と同じ画面に生々しく荒々しい血肉や汚物やセックスが存在する気持ち悪さ、酩酊感がたまらなく愛おしかった。わたしのルーツである「花」を、荒っぽい「生(性)」と「死」で「汚された」ことに一種の快感を覚えているともいえるかもしれない。

さいきんまた映画を撮ろうと誘われた。彼はずいぶん酔っ払っていたけれどわたしの文章には熱があるんだとしきりに言った。わたし自身ですら感じられない熱を彼がどこから感じているのかはわからなかったけど「きみの言葉を撮りたいんだ」という誘い文句はきざなプロポーズみたいで少しよかった。わたしはずっと文章をベースに生きてきて、わたしにとっての創作は文章が完成形なので、脚本を書き上げた時点で満足してしまって、映像にしようとしたとたん熱が冷めてしまう。たぶん映画制作には向いていないのだろうと前回じゅうぶんに感じたのだけど、もし、もしもう一度作るなら、こんな映画を作りたいと思う。不協和音、気持ち悪さ、違和感、そんなのをわたしなりに、熱をもったまま表現できたら、それがわたしの創作活動の目標なのかもしれない。

気がついたら日差しがずいぶん暖かくて、真夏はまだ先だけれど春は足元から迫ってきている。あの小さなスクリーンが真っ暗になった瞬間からずっと微熱のときみたいに頭がふわふわしていて、わたしの中にも夏の種が植わったみたい。

ミッドサマー、観てよかったです。みんな観てね。