20231208

タクシーのなかで泣いている。タクシーの中で泣く人は多いのだろうなと思う、1人じゃないけど1人になる空間。1人だけど1人じゃない空間。

どうしようもなく悲しい。そういえば涙を拭いながらリアルタイムでその最中の感情を書き記すのは初めてだと思う。悲しいのか、虚しいのか、はたまた嬉しいのか、何なのかよくわからない。涙というのは畢竟そういうよくわからない感情をよくわからないままに表現するためのツールなのだろうとも思う。

 

彼氏の家族と居酒屋に行った。彼氏の両親と、祖母と。とっても愉快なご家族で、あたたかい人たちだと思った。こういうあたたかい人たちに囲まれて育つとなるほどこういう人になるのだなと思ったし、それが羨ましかった。とてもよくお酒を飲む人たちで、そのペースについていったばかりにしっかり酔っ払っている。酔っ払っていると筆が進むし、飾ることなく本音を綴っている実感がある。読み返すとそのすべてがしっかり陳腐なのだけど、それがほんとうなのだということも実感としてわかる。

彼のことが羨ましいのだと思う。わたしはわたしのことが大好きだし、わたしにとってはわたしが全ての判断基準なので、わたしが一番すごいのだけど、同時に彼のことが羨ましいということも、矛盾なく成立する。その理屈はいつかわたしが解明してくれるだろうと思うので保留する。

 

育つ環境が違うと価値観がまったく異なるということは理屈として理解できる。が、それをほんとうに理解すると涙が出てくるものなのですね。わたしがこれまで悩まされてきた、向き合ってきた(と思っていた)価値観の違いは、もう全然歯が立たないくらいちがう環境の中でつくられてきたもので、それにいっしょけんめいに噛みついてきたわたしのどれだけ滑稽なことか。だってそうするしかわたしが生きられる道はなかったし、だれも教えてくれなかった。

この環境のなかではわたしはどうあがいてもお客様で、やり方を知らないからなじむことができない。難なくなじめる人のほうが相応しいんじゃないかとまでは思わないけれど、なじめないくせにピーチクパーチク正当性や優位性を主張するわたしはとっても滑稽で、ぜんぜんダメじゃんと思う。そうするとなんにも言えなくなって、なんにも言えないわたしの代わりに涙がぽろぽろ出てきてくれる、ありがとうね。かわいいわたしの涙ちゃんたち。

 

甘え

年末年始の浮かれた空気が年々嫌になってきている。普段会わない人に会うのは嬉しいし特別なイベントは楽しいけれど、そうやって何日もそわそわし続けていると早く日常に帰りたくて仕方がなくなる。年末年始は帰省をしていて、4日間の滞在予定だったが3日目でどうにも耐えられず帰ってきた。家族とはふつうに馬が合わないので当然である。わたしの場合は一人暮らしをして家族と距離をとれたのがほんとうに良いことで、そのおかげで関係がよくなったと錯覚してしまう。帰省するたびにわたしはよくこんな人たちと一緒に住んでいたなと感心するし、その感覚を忘れないために定期的に帰省しなければと思う。

 

昨年夏に受けた集中講義で当事者研究の真似ごとをした際、わたしは「『帰る』フェチ」ということになった。何をしていても帰りたくて、帰れるとわかった瞬間心が踊る。本当は人といる時すぐ帰りたくなる理由なんてわかっていて、それは他者がいると否応なく自意識が刺激されるから。

わたしはわたしがわたしである限りその存在の全てを愛する必要があって、それは他者の目に映る自分の姿も例外ではない。これはあくまでも、「他者から見た自分」が「自分にとって」よいものであるかどうかの話であって、他者の価値基準は関係ないということはわかってもらえると思う。つまり自分で自分を縛っているだけなのだが、自分にとって都合のいい部分だけをコントロールして表出するにはかなりのエネルギーを使う。

そんなことを考えているとブログの公開なんて怖くて怖くて全然できなくなってしまった。言葉にするとそれまで留保されていた意味が固定されてしまって、本当はこんな言葉じゃ言い表せないはずの全部が行間に吸い込まれて消えてしまう。これまでわたしが書いてきたことは全部本当だけど全部嘘で、わたしが考えていることはあなたには絶対にわかりません。わかるよね?けれどこうして気分が落ちている時にしかブログなんて外に出せないので、今のうちにとりあえず急いで形にするしかない。

 

いま心理学を学び、臨床経験を積み始め、スーパーヴィジョンを受け、新たに出会う人や出会ってきた人の背景をこれまで以上によく考えるようになった。こんな嫌な人にも辛い過去があるかも、あんなこと言う人にもこれまでの人生がある、でもそんなことほんとは全然ぜーんぜんわたしが考える必要なくて、そんな色々をわざわざ汲み取ってあげてどうなるの?わたしのことは誰か汲み取ってくれるんですか?誰が?

ほんとうは嫌なことは嫌で無理なことは無理で辛いなら辛いと言えばいいし言わなきゃいけない、言わなきゃいけないのに言わずに変な文章つらつら並べて誤魔化してきたのがわたしの罪で、これからずーっとその罪を償わなきゃいけない。ほんとうは全部嫌だったんです。わかるよね?わからないでね。

 

 

わかりますか?

 

過去の自分の文章を読み返していると、かなり頻繁に、わかりますか?と問いかけていることに気づく。誰に?

わかってほしくて文章を書いているのだと思う。もちろんそうだと思う。わかってほしいしわからないでほしい、わからないことをわかっていてほしい、わかる?わかりますか?

 

過去から離れることができない。将来については本当に楽観的なのに、過去の辛かったこと嫌だったことは何度も反芻してしまう。例えば恋人がライブハウスで出会った女にたぶらかされて飲みに出かけたりしたときの感情をわざと思い出す。最悪な気持ちになる。気分が落ち込む。ご飯を食べて寝る。起きたら落ち着いている。数か月に一回、本当に嫌な思い出を引き出して悲しみや怒りや絶望や少しの安心を再体験することで初めて普段の穏やかで幸せな生活のバランスを保つことができている。そうしないと生活できないわけではないけど、そうしたほうが良いことがわかる。わたしにはわかる。あなたにはわかりますか?

汚いものを見ると落ち着く。不快なものが排出される様子に安心する。千と千尋の神隠しで、カエルや人やごちそうをたらふく食べたカオナシが川の神の団子によってそれらをすべて吐き出すシーンが小さい頃から大好きだった。排出したものが汚ければ汚いほどカオナシはすっかりキレイになっているはずで、それが爽快だから。わたしは不快なものを見たり思い返したりすることで、今の自分が比較的快適に暮らしていることを確認したいのかもしれない。もしくは最悪な経験を定期的に想起することで次なる最悪な経験に備えているとか。あるいは単に悲しんで落ち込んでいるわたしが一番きれいで、そうしないとブログが書けないからかも。ね、どう思う?

 

ずっと後ろ向きに生きている。過去を振り返るのが生きがいで、将来の自分が気持ちよくノスタルジーに浸れるように今を生きている。今のわたしが今を生きることはできなくて、過去のわたしにとっての将来か、将来のわたしにとっての過去という捉え方しかできない。

何かをやり過ごしている。生活をやり過ごしているという感じ。大学院の入試が終わって、爪に色をつけては剥がす生活を繰り返しているうちに10月も終わってしまった。冬が来ることは嬉しいけれど、それを待つ日々に彩りを見つけるのは得意ではなくて、そうやってなんとなく過ごした時間が22年重なっているだけなのに、過去の出来事は快も不快も鮮やかに思い出される。どんな日々を送っても将来の自分は今の自分を思い返して都合よく感傷に浸ってくれるだろうということだけはよくわかる。みなさんにはわかりますか?わかってね。

ぜんぶ嘘だけどね

 

気づいているかわかりませんが最近のわたしはほんとうにもうダメです。

いまのわたしが大切にしているものすべて、近い将来意味をなくしてしまうだろうということが直感的にわかる。すべてというのはほんとうにすべての物事です。浮上してきたタスクや思考を取捨選択する、その選択すべてが間違っていて、必要なものを片っ端から捨てながらいまわたしは歩いている。なにもかもがダメになってしまって布団の中で丸まって情けない文章を書くことしかできない。

 

上の文章は1月15日に作成した下書きで、3月31日現在のわたしはさらにダメな状態になっている。文章が書けないという内容のブログは何個目ですか?文章はそれほどまでにわたしにとって大切な(そう思いたい)もので、それがうまくいかないせいでもうずっとずっと落ち込んでいる。しかしそれでも落ち込みきらないからやはり文章は書けない。

 

幸せだから文章が書けない、それでも今のわたしは幸せだと感じているのだからそれでいいことにしていると恥ずかしげもなく言うわたしを友人たちは優しく肯定してくれて、それで本当に恥ずかしくなってしまった。それでいいと思っていないからこんなにうじうじ言っているわけでしょう。文章を犠牲にして享受する日々の幸せは本当は意味のないもので、その焦燥感からどうにか捻り出した文章はもっと意味のないもので、そもそもわたしが文章を書くことに意味があるのかわからないまま、意味が必要か?と問いかけること自体も無駄で、じゃあどうしたらいいのでしょう?例えば明日の朝一番に商店街の花屋で買ってきた花を100円均一の花瓶に活けたとして、それに意味がありますか?

 

姉は職を失い、兄は引きこもり、祖母は陰謀論を信じ、妹だけは晴れやかに小学校を卒業した。わたしは二日酔いでバイトを休み、親知らずを抜き、その痛みに甘えてろくに勉強もせず、気づけば春休みを終えようとしている。鏡の前で大口を開けると真っ黒い糸が当然のように歯茎に埋まっていてすこし面白い。1年前の自粛期間からこっちすっかり夜型になったらしい隣人は今夜も気持ちよさそうに歌を歌っている。たぶん彼は今の幸せを生きていて、それだけが本当のこと。

ワールドイズマイン

 

最近のこと。1週間ほど前からバカでかい口内炎が治らない。田舎の祖母がグランドゴルフに通い始めたと電話してきた。恋人にかわいい鞄を買ってもらった。Amazonで買った加湿器のパワーがかなり弱い。親に今年は帰省してくれるなと言われた。お年玉代わりにみかんを送ってくれるらしい。

 

恋人の唯一気に入らないところはわたしのブログを読んでくれないところだと愚痴ると友人に呆れられた。自分の恋人がブログを書いていれば全記事隅から隅まで5回ずつは読むのが普通だと思っていた。好きな人がどんなことを経験してどんなことを考えているのか合法的に知れるのだから当然だ。もうそんなことしか書くことがない。恋人のことを文章にするのは気乗りしないフリをしていたけれど生活の8割を一緒に過ごしているのだから恋人のことくらいしか文章にできない。生活が幸せであればあるだけ自分が本当につまらない人間だということをまざまざと知らされる。

 

昨晩歯磨きをしながらブログを書こうと思った、確かに書きたいと思ったことがあったはずなのだけどもうすっかり忘れてしまった。だから何かを書きたいと思ったらすぐ文章にするべきなのにもう何年も同じことを繰り返している。そういえば普通の日常みたいなことをそれっぽく書き上げるのも苦手になってしまった。わたしは悲しいときつらいとき怒っているときにしか文章が書けなくて、昔はなんだかずっと落ち込んでいたからいつでも書けたのだけど今はてんでダメだ。ここ半年ほどのブログが全く面白くないことには気づいている。結局わたしがわたしを好きでいるためには文章が必要で、でも今のままでは書けない。幸せだけれど書くためにはやく不幸にならなければという焦燥感に駆られるのがほんとうにつらい。どうにか嫌なことを探してみてもせいぜいバイトがめんどくさいとか授業で発表するのが嫌だとか恋人とけんかしたとか将来のことが漠然と不安だとかそういうありふれた大学生の悩みしか出てこない、しかしわたしはありふれた大学生とは違う大それた悩みを持っているなんてうぬぼれももうこの年齢になるとできなくて、昔のわたしは普通の生活をぜんぶ自分と関連付けて否定的に捉えるのがほんとうにじょうずだったんだなあと思う。自己肥大から脱却できるくらいには大人になったということかもしれない。

 

 

最近雪がたくさん降る場所に行きたいと思っている。以前好きだった人は東北地方への思慕をよく文章にしていた。憧れの場所というものがずっとほしくてたまらない。わたしはたいがい何に対しても憧れを持つことができない。何度でもいうけれどとにかくわたしはわたしのことにしか興味がなくて、わたし以外のものを純粋に好きでいることが難しい。わたしが何の衒いもなく好きだといえるものは猫とカレーとあとはテイルズオブシリーズくらいで、その他はほんとうに自分に関連することにしか興味を向けられない。心理もそうだし、恋人もそうだし、映画も小説も友達のこともみんなそうだ。わたしはもう自分の身の回りのことで精一杯なのだ。自分以外のものを追いかける人たちのことがうらやましくて、というよりそれが普通で、そういう人にならなければという思いが強くて、何かを好きにならなければとずっと思いながら生きてきたのだけど、やっぱりわたしには難しい。

 

小学生のとき、「普通わかるでしょ」という言い方で母親に叱られることがたびたびあった。今でこそその「普通」を教えるのが親の仕事だろうと憤ることもできるけれど、当時は「普通」を外れないようにしなければといつも恐る恐る行動していた。普通と違う言動をすること、何かを知らないということを露呈するのがずっと怖くて、それをあまり気にせずにいられるようになったのはごく最近のことだ。そうやってずっと怯えながら生きていたので気づかなかったけれど、わたしは思っていたよりずっと普通で、世界は思っていたよりずっとわたしとは関係のないところで動いている。わたしとわたしの身の回りだけがわたしの世界で、実はそれで十分なのだ。

 

今年は世の中がずっと落ち込んでいて、色んな不利益を被った人がたくさんいるのはわかっているけれど、わたしにとっては人生でいちばん穏やかで幸せに過ごせた年だった。ブログが面白くないことだけが唯一の難点で、わたしの幸せでつまらないありふれた世界を納得できる形で文章にすることが来年の目標だ。

搔き停める

 

今日の夕方、港の近くのライブハウスで観たバンドのフロントマンはあまりMCが上手ではなかったのだけど、ライブの終盤、お腹の底にずっと黒くて重い塊があるのだと言った。それを曲にして、歌って、ライブで吐き出すつもりだったのに、延期に延期が重なってもう自分でもその時の感情がわからなくなってしまった。わからないままわかったふりをして演奏するのは自分にとってはよくないことで、どうすればいいのかわからない、と、そういう趣旨の話をして、しかし自分の言葉に納得いかない様子のまま、3曲演奏して舞台袖にはけていった。

 

わたしがまだ高校生のとき、「搔き停める」というタイトルのブログを書いた。もちろん当時の感情は今のわたしには思い出せないけれど、いいタイトルだと思う。確実に消えてしまう、永遠に存在することはできない感情や考えを、文章にして掻き集めることで、そこが記憶の停留所のようなものになれば、それがいちばん良い文章なのだと思う。

 

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あの頃のわたしが持っていた全能感もそれと矛盾する激しい無力感も今のわたしには取り戻せないし、今のわたしが持っているものを未来のわたしが取り戻せないことも今のわたしはわかっている。それでも(わたしの文章は1週間ほどは寝かせて推敲したほうが面白くなることもわたしは知っているのだけど)、今日のわたしが感じたことの一部分でも明日のわたしが覚えていられるように、今日感じたことくらいは今日のうちに文章にしておきたいと思う。

恋人のことが好きだ

 

暗く重たい気持ちを抱えている時にしかうまく文章が書けなくて、それなのに最近はもうずっと緩やかに幸せでどうにも筆が進まない。先日夜の公園で偶然友人に会い、ブログ読んでるよと言われた。高校時代の友人からも更新待ってると久しぶりに連絡が来た。好きな人たちに自分の文章を読んでもらえて、感想をもらえるのはやっぱり嬉しい。うまくは書けないけれどたまには幸せをそのまま文章にしてみようと思う。

 

わたしには付き合って3年目の恋人がいて、最近は特に仲良しなので毎日がとても楽しい。もちろん嫌なところはあるし、それなりにけんかもするけれど、それら含めて彼のことが好きだ。

 

彼は明快で、肯定的で、さっぱりしていて、好きなものがたくさんあって、フットワークが軽くて、夜型で、地元が好きで、無邪気で、これらすべてがわたしと異なっていて、異なっていることがいとおしい。わたしの持っていないものを持っていて、わたしだけでは見られなかったものを見せてくれるような気がする。

 

わたしは本当にずっと自分を好きでいることだけを大切に生きてきたので、「それを好きな自分が好きだから」という理由なしに自分以外の人や物を好きでいることが簡単ではなくて、素直に何かを好きだと表明することがずっとできなかった。同じように、わたしはわたしに好かれるためだけに自分を形成してきたので、わたし以外の誰かがわたしを好きになることもわたしにとって普通ではなくて、仮に好意をもらったとしてもそれをそのまま受け取ることができなかった。

 

それなのに、いまわたしには恋人がいて、わたしは無条件にその人が好きだと伝えることができるし、当然その人もわたしのことが好きなのだと感じることができる。これはわたしにとってほんとうに革命的な出来事で、たとえ3日後に彼と別れることになったとしても、わたしの中の好きという感情にアイロンがけしてくれた彼との生活は、わたしの一生の支えになるだろうと思う。

 

恋や愛なんてものを文章にするのはかなり無粋だし、今の恋人との将来がどうなるかなんてことも今のわたしにはわからないのだけど、今わたしが当たり前に誰かを好きだと思えていること、そしてそれを臆せず言葉にできていることは、過去、現在、未来、すべてのわたしにとって、何にも代えがたい経験だと思うのです。

 

夜中にコメダ珈琲まで散歩したり、ぬるい湯舟でのぼせるまで話したり、薄暗い台所で梨を剥いて食べたり、そういう生活が本当に幸せで、21になったいまのわたしには好きな人がいて、好きでいてくれる人がいて、本当に幸せだということを、ここに確かに記しておきたい。