🧌
わたしは怪物だ。
20を過ぎ、25をも過ぎて、いつまでたっても誰かに自分をわかってもらいたい、ワカッテホシイモンスターなのである。
誰かに自分をわかってほしい、というのが、わたしの根源的な願いであり、生きるための原動力である。逆に言えば、私以外の人は私のことを理解するポテンシャルを持っている、と思っている(相手のことを理解するための準備がわたしにはある、とも思っている)。だから、わたしは飲み会で自分のこと(本当のこと)を話すし、相手にも相手のこと(本当のこと)を話してほしいと要求する。わたしは普段このようなことを考えていて、あなたにこれこれのことを思っていて、その背景にはこういう思いがあるのだけど、あなたはどう?と、そういう具合である。
たぶん、おそらく、きっと、このようなわたしのコミュニケーションは億劫だし、わざとらしいし、野暮なのだろうと思う。ひととの会話に社交辞令は必要なくて、いつでも本当のことを話してほしい、というわたしの会話の様式は、多くの人にとって戸惑いを生じさせるもので、場合によっては不躾で面倒なものなのだろうとわかってきている。だけれど、わたしはいつもそれを求めて、空回りして、なにか頑張っている人、文句ばかり垂れている人、という評価をもらっておしまいである。その度にわたしはこうやってイヤホンの最大音量で音楽を聴いて号泣しながら帰路につくことになる。もういいよ。何回同じことを繰り返すのか。
わかってほしい。自分が何かを言って、それを相手が受け止めて、何かを返してきて、そうやって直接的なコミュニケーションをとりたい。それで自分のことをわかってほしいし、相手のことをわかりたい。それだけなのに、それだけのことが本当に難しい。やめてしまえばいい、期待しなければいいのにそれもできない。かくして、孤独で悲しき怪物がここにひとり生きているのである。🧌
愛
交際7年目に突入しても週末のデートが終わり彼が帰ってしまうと新鮮に寂しいし、彼が好きだということを考えて涙が出る。
わたしは幸せだと強く思う。幸福の意味ではなく幸運の意味で。最近ようやく彼のことを愛していると言えるようになった。実際のところ、わたしに大切なのは彼というより他者を愛せることだと思う。他者を愛せること(その能力と権利があること)は本当に幸運なことだ。愛することと愛されることはもちろん表裏一体だけれど、愛することに先行して愛されることとその愛を受け取ることがあるのだから、愛するほうが難しいのは当然のことだろう。わたしは今になってようやく、自分が愛されているということを理解し始めた。今わたしが彼を愛せるのはほんとうに得がたい色いろな条件が積み重なってきたからで、それは幸運なことだ。それを思うだけで涙が出る。
愛することは許されることかもしれない。自分と、相手に許されることなしにはだれかを愛することはできない。数年前、わたしは愛の人になりたいと書き残していた。いまのわたしは愛の人だといえるだろうか。もちろん生来わたしは(自己)愛の人であるけれど、ずっと他者を愛することを許しておらず、許されていなかったのかもしれない。愛はそれを受け取ってもらえなければ大きな傷となって戻ってくるから、それが怖くて(受け取ってもらえることが明白な)自分に対してしか向けられなかった。それを相手に向けても受け取ってもらえると心から信じることができて(つまり、それほどの愛を相手から感じることができて)初めて、相手に愛を向けることができる。だから相手に受け取ってもらうことを前提としない愛をわたしが嫌うのはそういうことだろう。だれかを、なにかを愛するためには、それに伴う責任を引き受けなければならないし、その覚悟ができて、その前提が共有されてはじめて、人を愛し、愛されることができる。わたしにとって一方向の愛は、何よりもその相手に対して不誠実なのである。それはつまり、わたしがついぞ人を愛したことも人に愛されたこともないことを意味するかもしれないけれど。
愛したいし愛されたい、どうしようもないほど。あなたのことを知りたいし、わたしのことをわかってほしい。ずっとずっとそればかりを求めていて、わたしはそのために涙を流す。わかってほしい、わたしを見てよ、わたしのことを理解して、そんなことがどうしてこんなに悲しいのか、もうぜんぜんわからないけれど、天命のような呪いのようなこの欲求に、わたしは生涯付き合っていかなければならない。わたしを好きだと、愛すると言うならば、もちろんあなたもとことんそれに付き合うと、覚悟を決めなければならない。わかっているよね。
自分は愛されているのだと本当に理解するまでこんなにも時間がかかってしまった。時間がかかったけれど、ついにわたしは腹を括りました。それほどまでにわたしにかかった呪いは強かったのだと、わかっていたはずなのに、ようやくほんとうにわかった。呪いがとけてはじめて呪われていたのだと気づくみたい。
わたしは愛されている!ほんとうに幸せだ!
声のする方へ
最近音楽を聴いて泣きましたか?もしくはそういう経験がありますか?
答えがNoであれば、足りないのは音量かアルコールかその両方であると断言しましょう。なぜならば、いまわたしは大量のアルコールを摂取した後大音量で音楽を聴いて涙しているからです。
ある患者が自分の好きな音楽について語るとき、自分が音楽を理解するために自分に足りないのは音量であると気づいてから音楽に対する捉え方が劇的に変わったと語っていた。あなたはどうですか?あなたがさまざまな音楽を聴く(聴いていると思っている)とき、足りないのは音量ではないですか?音漏れを気にして、健康を気にして、外聞を気にして、何かを気にしていながら、音楽を、はたしてあなたはほんとうに聴いていますか?
アルコールによって自我が揺るがされているとき、音楽のエス(イド)的な部分がとくによく染み渡ってくる。その音量が大きければなおさらである。たんに大きな音で音楽に身を浸しているとき、それ以外のなんにも気にならなくなる。たとえばいま高架下の公園で最大音量で音楽を流していると、わたしの前を、後ろを人が通ろうとも、左腕に虫が止まろうとも、雨がいっそう強くなろうとも、高架の上を最終電車が走る振動を感じようとも、そんな瑣末な事ごとはなんにも気にならないし、もっともっと些末なものものがだいじに思えてくる。
そういう経験を、あなたは、あなたですよ。今これを読んでいる、その、あなたが、きみが、しているかどうか、ということが、わたしの懸念事項なのです。わたしではない、と思わないでほしい。このブログを、大音量で、最大音量で、聴いてほしいと、わたしは思う。きみのすべてを、わたしに教えてほしいし、わたしのすべてを、ほんとうは、あなたに、きみに、わかってほしい。わかるかい?あなただし、きみだよ。ほんとうにわかっている?わかっている気にだけは、ぜったいにならないでほしい。
甘え
年末年始の浮かれた空気が年々嫌になってきている。普段会わない人に会うのは嬉しいし特別なイベントは楽しいけれど、そうやって何日もそわそわし続けていると早く日常に帰りたくて仕方がなくなる。年末年始は帰省をしていて、4日間の滞在予定だったが3日目でどうにも耐えられず帰ってきた。家族とはふつうに馬が合わないので当然である。わたしの場合は一人暮らしをして家族と距離をとれたのがほんとうに良いことで、そのおかげで関係がよくなったと錯覚してしまう。帰省するたびにわたしはよくこんな人たちと一緒に住んでいたなと感心するし、その感覚を忘れないために定期的に帰省しなければと思う。
昨年夏に受けた集中講義で当事者研究の真似ごとをした際、わたしは「『帰る』フェチ」ということになった。何をしていても帰りたくて、帰れるとわかった瞬間心が踊る。本当は人といる時すぐ帰りたくなる理由なんてわかっていて、それは他者がいると否応なく自意識が刺激されるから。
わたしはわたしがわたしである限りその存在の全てを愛する必要があって、それは他者の目に映る自分の姿も例外ではない。これはあくまでも、「他者から見た自分」が「自分にとって」よいものであるかどうかの話であって、他者の価値基準は関係ないということはわかってもらえると思う。つまり自分で自分を縛っているだけなのだが、自分にとって都合のいい部分だけをコントロールして表出するにはかなりのエネルギーを使う。
そんなことを考えているとブログの公開なんて怖くて怖くて全然できなくなってしまった。言葉にするとそれまで留保されていた意味が固定されてしまって、本当はこんな言葉じゃ言い表せないはずの全部が行間に吸い込まれて消えてしまう。これまでわたしが書いてきたことは全部本当だけど全部嘘で、わたしが考えていることはあなたには絶対にわかりません。わかるよね?けれどこうして気分が落ちている時にしかブログなんて外に出せないので、今のうちにとりあえず急いで形にするしかない。
いま心理学を学び、臨床経験を積み始め、スーパーヴィジョンを受け、新たに出会う人や出会ってきた人の背景をこれまで以上によく考えるようになった。こんな嫌な人にも辛い過去があるかも、あんなこと言う人にもこれまでの人生がある、でもそんなことほんとは全然ぜーんぜんわたしが考える必要なくて、そんな色々をわざわざ汲み取ってあげてどうなるの?わたしのことは誰か汲み取ってくれるんですか?誰が?
ほんとうは嫌なことは嫌で無理なことは無理で辛いなら辛いと言えばいいし言わなきゃいけない、言わなきゃいけないのに言わずに変な文章つらつら並べて誤魔化してきたのがわたしの罪で、これからずーっとその罪を償わなきゃいけない。ほんとうは全部嫌だったんです。わかるよね?わからないでね。
わかりますか?
過去の自分の文章を読み返していると、かなり頻繁に、わかりますか?と問いかけていることに気づく。誰に?
わかってほしくて文章を書いているのだと思う。もちろんそうだと思う。わかってほしいしわからないでほしい、わからないことをわかっていてほしい、わかる?わかりますか?
過去から離れることができない。将来については本当に楽観的なのに、過去の辛かったこと嫌だったことは何度も反芻してしまう。例えば恋人がライブハウスで出会った女にたぶらかされて飲みに出かけたりしたときの感情をわざと思い出す。最悪な気持ちになる。気分が落ち込む。ご飯を食べて寝る。起きたら落ち着いている。数か月に一回、本当に嫌な思い出を引き出して悲しみや怒りや絶望や少しの安心を再体験することで初めて普段の穏やかで幸せな生活のバランスを保つことができている。そうしないと生活できないわけではないけど、そうしたほうが良いことがわかる。わたしにはわかる。あなたにはわかりますか?
汚いものを見ると落ち着く。不快なものが排出される様子に安心する。千と千尋の神隠しで、カエルや人やごちそうをたらふく食べたカオナシが川の神の団子によってそれらをすべて吐き出すシーンが小さい頃から大好きだった。排出したものが汚ければ汚いほどカオナシはすっかりキレイになっているはずで、それが爽快だから。わたしは不快なものを見たり思い返したりすることで、今の自分が比較的快適に暮らしていることを確認したいのかもしれない。もしくは最悪な経験を定期的に想起することで次なる最悪な経験に備えているとか。あるいは単に悲しんで落ち込んでいるわたしが一番きれいで、そうしないとブログが書けないからかも。ね、どう思う?
ずっと後ろ向きに生きている。過去を振り返るのが生きがいで、将来の自分が気持ちよくノスタルジーに浸れるように今を生きている。今のわたしが今を生きることはできなくて、過去のわたしにとっての将来か、将来のわたしにとっての過去という捉え方しかできない。
何かをやり過ごしている。生活をやり過ごしているという感じ。大学院の入試が終わって、爪に色をつけては剥がす生活を繰り返しているうちに10月も終わってしまった。冬が来ることは嬉しいけれど、それを待つ日々に彩りを見つけるのは得意ではなくて、そうやってなんとなく過ごした時間が22年重なっているだけなのに、過去の出来事は快も不快も鮮やかに思い出される。どんな日々を送っても将来の自分は今の自分を思い返して都合よく感傷に浸ってくれるだろうということだけはよくわかる。みなさんにはわかりますか?わかってね。
ぜんぶ嘘だけどね
気づいているかわかりませんが最近のわたしはほんとうにもうダメです。
いまのわたしが大切にしているものすべて、近い将来意味をなくしてしまうだろうということが直感的にわかる。すべてというのはほんとうにすべての物事です。浮上してきたタスクや思考を取捨選択する、その選択すべてが間違っていて、必要なものを片っ端から捨てながらいまわたしは歩いている。なにもかもがダメになってしまって布団の中で丸まって情けない文章を書くことしかできない。
上の文章は1月15日に作成した下書きで、3月31日現在のわたしはさらにダメな状態になっている。文章が書けないという内容のブログは何個目ですか?文章はそれほどまでにわたしにとって大切な(そう思いたい)もので、それがうまくいかないせいでもうずっとずっと落ち込んでいる。しかしそれでも落ち込みきらないからやはり文章は書けない。
幸せだから文章が書けない、それでも今のわたしは幸せだと感じているのだからそれでいいことにしていると恥ずかしげもなく言うわたしを友人たちは優しく肯定してくれて、それで本当に恥ずかしくなってしまった。それでいいと思っていないからこんなにうじうじ言っているわけでしょう。文章を犠牲にして享受する日々の幸せは本当は意味のないもので、その焦燥感からどうにか捻り出した文章はもっと意味のないもので、そもそもわたしが文章を書くことに意味があるのかわからないまま、意味が必要か?と問いかけること自体も無駄で、じゃあどうしたらいいのでしょう?例えば明日の朝一番に商店街の花屋で買ってきた花を100円均一の花瓶に活けたとして、それに意味がありますか?
姉は職を失い、兄は引きこもり、祖母は陰謀論を信じ、妹だけは晴れやかに小学校を卒業した。わたしは二日酔いでバイトを休み、親知らずを抜き、その痛みに甘えてろくに勉強もせず、気づけば春休みを終えようとしている。鏡の前で大口を開けると真っ黒い糸が当然のように歯茎に埋まっていてすこし面白い。1年前の自粛期間からこっちすっかり夜型になったらしい隣人は今夜も気持ちよさそうに歌を歌っている。たぶん彼は今の幸せを生きていて、それだけが本当のこと。
ワールドイズマイン
最近のこと。1週間ほど前からバカでかい口内炎が治らない。田舎の祖母がグランドゴルフに通い始めたと電話してきた。恋人にかわいい鞄を買ってもらった。Amazonで買った加湿器のパワーがかなり弱い。親に今年は帰省してくれるなと言われた。お年玉代わりにみかんを送ってくれるらしい。
恋人の唯一気に入らないところはわたしのブログを読んでくれないところだと愚痴ると友人に呆れられた。自分の恋人がブログを書いていれば全記事隅から隅まで5回ずつは読むのが普通だと思っていた。好きな人がどんなことを経験してどんなことを考えているのか合法的に知れるのだから当然だ。もうそんなことしか書くことがない。恋人のことを文章にするのは気乗りしないフリをしていたけれど生活の8割を一緒に過ごしているのだから恋人のことくらいしか文章にできない。生活が幸せであればあるだけ自分が本当につまらない人間だということをまざまざと知らされる。
昨晩歯磨きをしながらブログを書こうと思った、確かに書きたいと思ったことがあったはずなのだけどもうすっかり忘れてしまった。だから何かを書きたいと思ったらすぐ文章にするべきなのにもう何年も同じことを繰り返している。そういえば普通の日常みたいなことをそれっぽく書き上げるのも苦手になってしまった。わたしは悲しいときつらいとき怒っているときにしか文章が書けなくて、昔はなんだかずっと落ち込んでいたからいつでも書けたのだけど今はてんでダメだ。ここ半年ほどのブログが全く面白くないことには気づいている。結局わたしがわたしを好きでいるためには文章が必要で、でも今のままでは書けない。幸せだけれど書くためにはやく不幸にならなければという焦燥感に駆られるのがほんとうにつらい。どうにか嫌なことを探してみてもせいぜいバイトがめんどくさいとか授業で発表するのが嫌だとか恋人とけんかしたとか将来のことが漠然と不安だとかそういうありふれた大学生の悩みしか出てこない、しかしわたしはありふれた大学生とは違う大それた悩みを持っているなんてうぬぼれももうこの年齢になるとできなくて、昔のわたしは普通の生活をぜんぶ自分と関連付けて否定的に捉えるのがほんとうにじょうずだったんだなあと思う。自己肥大から脱却できるくらいには大人になったということかもしれない。
最近雪がたくさん降る場所に行きたいと思っている。以前好きだった人は東北地方への思慕をよく文章にしていた。憧れの場所というものがずっとほしくてたまらない。わたしはたいがい何に対しても憧れを持つことができない。何度でもいうけれどとにかくわたしはわたしのことにしか興味がなくて、わたし以外のものを純粋に好きでいることが難しい。わたしが何の衒いもなく好きだといえるものは猫とカレーとあとはテイルズオブシリーズくらいで、その他はほんとうに自分に関連することにしか興味を向けられない。心理もそうだし、恋人もそうだし、映画も小説も友達のこともみんなそうだ。わたしはもう自分の身の回りのことで精一杯なのだ。自分以外のものを追いかける人たちのことがうらやましくて、というよりそれが普通で、そういう人にならなければという思いが強くて、何かを好きにならなければとずっと思いながら生きてきたのだけど、やっぱりわたしには難しい。
小学生のとき、「普通わかるでしょ」という言い方で母親に叱られることがたびたびあった。今でこそその「普通」を教えるのが親の仕事だろうと憤ることもできるけれど、当時は「普通」を外れないようにしなければといつも恐る恐る行動していた。普通と違う言動をすること、何かを知らないということを露呈するのがずっと怖くて、それをあまり気にせずにいられるようになったのはごく最近のことだ。そうやってずっと怯えながら生きていたので気づかなかったけれど、わたしは思っていたよりずっと普通で、世界は思っていたよりずっとわたしとは関係のないところで動いている。わたしとわたしの身の回りだけがわたしの世界で、実はそれで十分なのだ。
今年は世の中がずっと落ち込んでいて、色んな不利益を被った人がたくさんいるのはわかっているけれど、わたしにとっては人生でいちばん穏やかで幸せに過ごせた年だった。ブログが面白くないことだけが唯一の難点で、わたしの幸せでつまらないありふれた世界を納得できる形で文章にすることが来年の目標だ。