いちご大福/意味もない鬱

 

 中学生のときツイッターにはまっていて、その頃からかれこれ6年ほどネトストしているツイッターの人がいる。彼は文章を書く人で、「自意識とは、自分が、自分を、どう見るか」と定義していた。わたしはこの定義がすごく好きで、これに基づいた自意識を強く持っている人が大好きだ。自分がどんな人間に見えるのか、どんな自分でいたいのかということを常に意識している人たちは格好よさと痛ましさを併せ持っていて、その不安定感がくらくらするほど好き。彼の文章は彼自身の強い自意識で溢れているのでとても好ましく、わたしはほとんど恋をしていたので何となく鬱っぽい夜にはよく彼のブログを読み漁っていたのだが、そんなある夜に彼からいきなりDMが来た。

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けなげなわたしは彼に気に入られようと悩みながら1時間ほどで書き上げて送信したのだけど特に何の感想ももらえずにそれっきりとなった。大好きな彼にわたしの小さな自意識を見透かされたようで嬉しいような恥ずかしいような気持ち悪さを抱えてそのまま眠った。このままではその文章が浮かばれないのでこの場で供養する。

 

小さい頃、大人しかライターの火をつけることはできないんだと本気で思っていた。何度カチカチ鳴らしても無表情のライターは大人が握ると簡単に火を灯す。早く大人になりたかった。それからずっと早く大人になりたいと思っている。 夏の終わりに花火をした。ドンキの袋をぶらさげて公園の隅にしゃがみこんだところで誰かが火がないと騒ぎ出すので鞄からライターを取り出した。煙草吸うの?の問いにあー何か彼氏のが入ってた笑と意味のない嘘をつく。風の強い日だったから全然火がつかなくて、安全装置を回す親指の左側が赤くなってじんじんした。 早く大人になりたくて、いつも誰かの真似をしようと周囲の様子を伺っているうちに目つきが悪くなってしまった。誰かの価値観に合わせた行動だけがうまくなっている。“ライターと聞いてすぐに煙草を連想するのは逆にダサい”なんて誰に媚びているのかわからないままつまらない文章を書く。わたしは一生子供のままだ。

 

 

最近はどうしてもいちごが食べたくて、スーパーで綺麗に並べられた1パック500円のいちご達の前を5往復ほどしてそのままレジに向かう日々が続いていた。わたしはいちごが大好きなのだけど、"いちごが好き"という情報からの様々な邪推がどうにも怖くてずっとおおっぴらに表明することはできなかった。わたしが何を好きだろうと誰も何も気にしない、そんなことは分かっていてもずっと頭の隅にちらついてしまうのが自意識だ。こういうしょうもない自意識はそれを持っていない人からするとほんとうにほんとうにしょうもないものなのだけど、わたし(たち)はこれがないとまともに立って生きていられないのだ。

 

同じような問題で読書が好きかと問われるといつも即答できない。「まあ好きだよ」の「まあ」に含まれる、相手が自分より「読書好き」であった時の保険としての面はもはや自明なのだけど、ただわたしは「文章を読むのが好き」なだけで、もっと言えば「文章から書き手の自意識を読み取るのが好き」なだけなのだ。わたしが文章を読むときその内容はあまり重要でなくて、どれだけ面白いと思った小説でもストーリーはすぐに忘れてしまう。ただその文章の中での言葉の使われ方やリズムがどんな印象であったかということはよく覚えている。むしろ重要なのはそれだけで、だからそれらが際立つ小説やエッセイの類をよく読む。

 一番好きなのは他人のブログだ。その人が一日をどう過ごしてどんな思考をしていたのか、その内容は基本的に本人以外の誰にとってもどうでもいいもので、それがその人の好きなリズムで、好きなことばを使って語られている様子を読むのがすごく好き。この人はきざな言い回しをする人だとかこの人この単語好きだなあとか、文章から読み取れるちょっとした性格や垣間見える自意識がとてもいとおしい。そういう意味のない読書であればけっこう胸を張って好きだといえる。

 

まだ世間がここまで騒がしくなる前、読書や映画鑑賞から「得られるもの」についての話をする機会が何度かあった。ある人は、専門書や啓発本はそれを読むことによって得られるものが明確だから読む、小説や映画はかけた時間と得られるものが釣り合わないから気が引ける、と言った。気づいていなかったのだけど、世の中はけっこう色んな行動に意味を求めていて、なんでそんなことするの?それに何の意味があるの?の問いを私たちに与え続けているようだ。

わたしは意味のないことが好きだ。意味のない文章を読むのが好きだし、意味のない文章を書くのが好きだし、意味なく映画を流して眺めるのが好きだし、ただ何もせず目を閉じて寝転んでいるのも好きだし、そのまま眠ってしまうのもいい。歩くのもどうせならゆっくりのほうが好きだ。わたしは効率や成果や学びを求めることにどうやら向いていなくて、そこで失敗することを恐れて「効率を求める」という土俵から自ら降りているのかもしれない。これもまぎれもない自意識の表出だ。ただわたしはわたしの都合の良いようにできているので、そうやって意味なく生きる自分が好きだと思い込めている。

 

最近は意味のある人生を生きている方々が家に押し込められて意味のない時間を強要されることに苦しんでいるのを見てしめしめと思っていたのだけど、そういった人たちももうすでに新しい意味をそれぞれ見つけ始めているようだ。わたしは今日もファミマで買った2割引きのいちご大福をほおばりながらこれも意味のない食物摂取だなあなんて考える。なんだかどうしようもなく文章が書きたくて、でもわたしは酔っ払ったときか落ち込んでいるときにしか良い文章が書けないので無理やり嫌なことを考えてみたけれどうまくいかない。意味もなく鬱っぽくなっただけで何も得られなかったし、大福の皮に包まれたいちごは求めていたほど甘くなかった。