また花を枯らしてしまった。

 

花という存在に理由なく惹かれるのは昔からのことだ。休日の朝布団にくるまって花言葉の逆引き辞典を眺めていると平気で3時間くらい経っている。部屋に飾ろうと買って帰った花はろくに世話をしてもらえないから本来の寿命を待たずして枯れてしまうのだけど。わたしは彼女ら(花はみんな女の子だ)が全うできるはずの生をこんなにも簡単に奪っている。わたしがいなければもっと長く、美しく生きられたのにね、ごめんね、でもきみたちは枯れてもきれいだよ。

 

 

花は女の子だ、と主張するのはわたしの父である。女の子は花だ、だったかもしれない。だからきみたちには○○な女の子になってほしい、という願いを込めて名前をつけたんだよ、うちには4輪も花があるから花束にできるね、というのが彼の言い分だ。

 

そう、わたしの家には4輪の花がある。わたしは女、男、女、女、女、の5人きょうだいの3番めで、女の子4人はみな名前に「花」という字を持っている。まだ小学生の妹2人はわたしたち上3人とは腹違いだ。離婚や子連れ再婚なんて今時まったく珍しいものではないのだけど、この家庭環境、生育環境は、完全にわたしという存在の趣味嗜好、考え方その他すべての源となっている。と、わたしはそう思っている。その話をしようと思う。

 

 

みなさんには好きなものはありますか?音楽が好き?読書が好き?映画が好き?スポーツが好き?たぶんわたしが好きなものは自分、それだけなのだと思う。わたしはわたしを好きでいるために生きているし、わたしを好きでいないとわたしは生きていられなかった。

 

4歳で母親と引き離され、9歳で"新しいお母さん"を迎えたわたしは、その寂しさや彼女に対する違和感、嫌悪感を、できるだけ表出しないこと、名前の通り涼しい顔でやり過ごすことが自分の義務だと感じていた。何を言われても、何を感じても、どんなに悲しくても、自分の中だけで折り合いをつけて完結させるのが常だった。ただそれは決して簡単なことではなくて、どうして自分がこんな思いをしなきゃいけないんだと毎晩泣きながら、どうにかこうにかひねり出した解決策が「自分を好きでいること」だった。

 

自分を好きでいること。自分は優れていて、他人はみんな自分より劣っていると思うこと。これがわたしの逃避のしかただった。本当にひどいことを言われたとき、「この人はわたしより劣っているから仕方がない、人の気持ちを考えた発言ができないんだ、ここはひとつこの人より優れているわたしのほうが我慢してやろう」とひとりで完結することで悲しさや怒りをやりすごしてきた。"クールな女の子"でなければならないわたしにとって、これが唯一の生きる術だった。

 

もう一つ、わたしが自分を好きでなければならない理由がある。「母親への思慕」だ。新しい家族に慣れないわたしが部屋でしくしく泣きながら想いを馳せたのは、当然わたしを産んだ母親である。わたしはわたしの脳内に自らが逃避するための「理想の母親像」を作りあげ、こんなときお母さんだったら、と、存在しないifを乱立させてその楽園を覆っていた。ここで、その楽園内の母親は完璧な人であって、その血を引くわたしもまた完璧に近い存在でなければならない。わたしがわたしのことを嫌ってしまうと、わたしと大好きなお母さんとのつながりが、わたしの楽園が壊れてしまう。わたしは自分を守るため、そして自分を守るための楽園を守るために、自分を好きだと思い込むしかなかったのだ。

 

 

さあ、ここでひとつ問題が発生する。上記のように出来上がった「自分のことが好きなわたし」にはしかし、中身は全く詰まっていないのである。わたしは無条件でわたしを好きでなければならないので、わたし自身に客観的な魅力がないことはなんの問題にもならない。わたしにはセンスも知識も趣味も得意なことも好きなこともやりたいことも夢も目標もなんにもない。音楽も、読書も、映画も、それに「触れたほうがいいかな」というある種の義務感のようなものに駆られて軽く撫でているだけだ。それでもわたしはわたしが好きだからそれを問題視せず、それらを得ようと努力することもなく生きてきた。

 

これが問題であるということを認識し始めたのはここ1年ほどのことだ。それらが「ない」こと自体というより、それらがあるかもしれないのに、「自分が好き」のフィルターのせいで「見えていない」ということが本質的な問題なのだと思う。

 

 

9月6日、わたしの20歳の誕生日。この日わたしはわたしの母親に連絡する。これは何年も前からひっそり決めていたことだ。父親はわたしたち(姉、兄、わたし)が母親と連絡を取ることを禁止しているのだけど、半年ほど前親戚から内密に教えてもらった11桁の数字は、お気に入りの日記帳の中でダイヤルされるのを待っている。電話して何を言うかは全く決めていないけれど、近日中に直接会う約束を取り付けようと思っている。

 

母親に関する記憶は、寝るとき必ず絡めた脚のぬくもりと、積み重なった別冊マーガレットくらいしか残っていなくて、唯一母親からもらった名前だけを大事に生きてきた。高校生のとき祖母がこぼした「母親は英語が好きだった」という情報に、生まれて初めて母親と自分とのつながりを感じてぼろぼろ泣いたのを覚えている。どんな人なんだろう。わたしのことを覚えているかな。ずっとずっと会いたくて、ずっとずっと会うのが怖かった。彼女はわたしの神さまで、彼女はわたしの生きる術で、わたしのすべてで、そんな彼女がわたしの作った理想像とかけ離れた人だったら、わたしの望むように愛を与えてくれなかったら、わたしはもう唯一の楽園をなくして、生きていられなくなってしまうかもしれない。

 

そう思っていたのだけど、わたしがわたし自身の問題点を認識したいま、「完璧でない母親」に出会うことで、わたしは「自分を好きでいる」ことの呪縛から逃れられるかもしれないという可能性を見出している。このとき初めて、「好きじゃない自分」の中から本当に好きなところや改善すべき点、目標を見出すことができるのではないか。そうでなくても、そうするための努力ができるようになるのではないか。大丈夫、そうすれば、彼女が完璧じゃなくても、彼女はわたしの呪いを解いてくれた神さまのままだ。

 

 

この通り、わたしは自分のことについて考え、またそれを文章に起こすのが好きなのだけど、ここまでしっかりと文章にしたのは初めてだ。これが現時点での、わたしの精一杯の自己分析。ずっとこういう文章を公表することを恥ずかしく思っていたのだけど、最近は自分を理解してもらうために自分の考え方を能動的に発信すべきだと思えるようになった。これを読んだ人は何を思うんだろうか、ただわたしの好きな人たちが、すこしでもわたしを好きでいてくれたら嬉しいと思う。

 

本当に会うかどうかはわからない、電話が通じるかどうかもわからない、会ったあとにどうなるのかも、いまのわたしにはわからない。けれど会ったあとのことは文章にはしないでおこうと思う。その経験を養分にして、さあわたしが蕾のままでいるのか、綺麗な花を咲かせるのか、はたまた枯れてしまうのか、しっかり見ていてくださいね。